第23回 忌み言葉1
皆さんは「あたりめ」「ありの実」「波の花」という言葉を聞いたことがありますか。
それぞれ「するめ」「梨の実」「塩」のことです。
「あたりめ」は、昔の商人たちが「(損を)する」との語呂合わせから「するめ」と言うのを嫌って言い換えた言葉です。
「ありの実」は、「なし」が「無し」に通じることから、使うことを避けて「有り」と言い、
「波の花」は「塩」の「し」の音が「死」につながるので言い換えたものです。
このように、その語の意味や連想が悪いため、使うのを避ける語や、それにかわって用いる語を「忌み言葉」といいます。
このような考え方は日本独自のものではなく、例えば中国では、
お正月に「完了(おわる)」「没有(ない)」「破了(破れる)」と言うのは良くないのだそうです。
また、マントウを作る時、裂け目が出たら「破れました」の代わりに「笑いました」と言うのだそうです。(く)
第24回 忌み言葉2
「忌み言葉」という名前には馴染みがない方でも、結婚を祝う時に「帰る・もどる・切れる・わかれる・終わる…」といった、
離婚や再婚を連想させるような言葉は使わないことや、「ケーキを切る」ではなく「ケーキにナイフを入れる」と言ったり、
「終わり」を「お開き」と言い換えたりしていることは、お聞きになったことがあるのではないでしょうか。
また、受験生に対して「落ちる・すべる」という言葉を使わないように注意したり、
或いは自分が受験生の時に意識したりしたことがあるのではないかと思います(該当する方がいらしたら、申し訳ありません)。
これらも、試験に失敗することを連想させるような言葉なので、避けようとしていたのですね。(く)
第25回 忌み言葉3
もちろん、これらの言葉を使ったからといって必ずしも良くないことが起こる訳ではないことを私たちは知っています。
それでも気にかけているのは、昔、言葉の中には不思議な力がこもっていると思われており、
縁起の悪い言葉を使うと本当に良くないことが起こってしまうと考えられたことに由来するのではないかと言われています。
今でも、ポジティブ・シンキングの本などに『「どうせ」「でも」などという言葉を使っていると、うまくいくこともいかなくなってしまう。
「できる」「うまくいく」と口に出してみるだけでも違うものだ』と書かれていることがありますが、
これも言葉には何らかの力があるという考えが、少なからず残っているということなのかも知れません。
最近では、お祝いの席で忌み言葉を気にしすぎて堅苦しくなるよりも、祝う気持ちが表せていればいいのではないかという考え方もあるようです。
それはそうかも知れませんが、自分が話す言葉によって相手を嫌な気持ちにさせたくない、
気持ちよく過ごして欲しいと願って不吉な表現を避けたり言い換えたりする考え方も、優しい気持ちが込められていて美しいと私は思います。
皆さんはいかがでしょうか。(く)
第26回 奥床しい1
先日、電車の車内広告に目が釘付けになりました。「賢明で、奥床しい女性を育てます」。
広告としては非常に地味な見た目でしたが、『奥床しい』の1語で、車内のどの広告よりもインパクトがありました。
いったい何の広告かと思ったら、私立女子中学のものでした。
耳で聞いたことはありましたが、初めて目にした『奥床しい』という言葉。
昔の日本女性をイメージさせるこの言葉の意味は、上品で、でしゃばらないというようなことだと理解していましたが、改めて辞書で調べてみると、
「おく‐ゆかし・い 【奥床しい】 深みと品位があって、心がひかれる。深い心遣いが感じられて慕わしい。
「人柄が―・い」」(大辞泉)と出ていました。
そうか、品があって心遣いが感じられるだけじゃないんですね。
心ひかれたり、慕わしかったりしないと、『奥床しい』とは言わないんですね。『淑(しと)やか』とは違うのでしょうか。(こ)
第27回 奥床しい2
『淑やか』は上品で静かな様を言います。
「お淑やかにしなさい」と言うことはあっても、「奥床しくしなさい」と言わないのは、『奥床しい』が意識的に作り出す様ではなく、
自然ににじみ出てくるものだからではないでしょうか。
『淑やか』のほうは、意識的にそうすることができますよね。
しかし、『淑やか』にしても『奥床しい』にしても、死語とまでは言いませんが、そのような人にお目にかかることは本当に少なくなりました。
女優さんで言えば、吉永小百合さんのイメージでしょうか。
もっと前の女優さんであれば、いろいろな人が該当するのかもしれませんが残念ながら詳しくないので、
思い浮かぶ女優さんがいる方は思い浮かべてみてください。また、身近にはそのような女性がいますか。
私は小、中、高と共学で、大学だけ女子校でした。
しかし、いわゆるお嬢様大学ではなく、どちらかと言うと勉学に熱心なタイプが集まっている学校でした。
少なくとも、私はそういう学校だと思って入学したのでした。しかし、そこにいたのです。『奥床しい』女性が。(こ)
第28回 奥床しい3
その人は、美しい人でした。
派手ではないのですが、何か心ひかれるものがある人でした。
授業中、隣に座ることもありましたが、その人の声を聞いた覚えがありません。
私は何度も声を掛けようと思ったのですが、気後れして声を掛けられず、声を聞くことがなかったのです。
しかし、先生に指されることもあったはずですから声は聞いたはずなのですが、私のイメージの中でのその人は言葉を発さず、
なのに不思議な存在感を漂わせています。
勉強ができたとか、人に親切にしていたとか、彼女に関する具体的なことは何も覚えていません。
ただ、深みと品位があって心ひかれる、まさに、『奥床しい』人だったことだけは鮮明に覚えています。
当時、私も彼女も18歳だったはずですが、既に彼女は奥床しかったのです。
やはり、奥床しさというのは身につけようと思って身につくのではなく、自然とにじみ出てくるものなのです。
大学を卒業してからかなりの年月が経ちましたが、未だに身近なところで彼女のような奥床しい人に出会ったことはありません。
前述の車内広告の女子中学は、いったいどのようにして奥床しい女性を世に送り出しているのかと、ちょっと意地悪な好奇心を抱いてしまいました。(こ)
第29回 相槌1
ホテルや劇場といった場所で、数人のグループで話している人達が、互いにうなずき合っていればそれは日本人のグループだ、という見方があります。
頻繁にうなずき合うのは日本人特有の現象であり、日本語はいろいろな言語の中で「相槌(あいづち)」が多い言語だと言われています。
お互いにうなずき合ったり、相槌を打ち合ったりしているときはそれほど意識しないかもしれませんが、
例えば、話している相手が表情を変えないで、うなずきもせず聞いているとき、
話し手は聞き手に対して「話がちゃんと伝わっているだろうか」と、疑問を抱くものではないでしょうか。
私など、日本語教師になりたての頃、学習者が目を見開いて首を動かすこともなくじっとこちらを見て授業を聞いている姿を見て、
ちょっと落ち着かない心持ちになったものです。
私達は、うなずいたり、相槌を打ったりすることで何を伝えようとしているのでしょうか。(に)
第30回 相槌2
「相槌(あいづち)」という言葉は、江戸時代から使われている言葉で、鍛冶屋さんが刀を鍛える時に、
向かい合って槌を打つという動作から生まれたものです。それが転じて、会話の時に見られる言動に使われるようになりました。
相槌には、「へえ」とか「そう」とか「ああ」といったように言葉で表される場合もありますが、
単に首を上下や左右に動かすといった行動で表現される場合もあります。
外国人の中には、この現象を、話をさえぎられているかのように不快に感じる人もいますが、
日本人は相手の話をさえぎるどころか、「あなたの話をちゃんと聞いていますよ」という姿勢で相槌を打っているのです。
この姿勢に対する理解が実はとても大切です。(に)
第31回 相槌3
よく、日本人の「はい」が、相手の話の内容に対する肯定的メッセージだったかどうか後になってから議論の対象になる場合があります。
この点について、金田一春彦先生や水谷修先生、水谷信子先生らが述べていらっしゃいますが、
この「はい」は英語の「YES」とは必ずしも関連はなく、話そうとしている相手に対して、聞き手側から話を促す信号を送っているに過ぎません。
従って、聞き手は話し手の「話の内容」を肯定しているのではなく、「話そうという姿勢」を肯定し、尊重しているということが言えるでしょう。
これによって、話し手は知らず知らずのうちに励まされるもので、これがないと、聞き手に自分の話が伝わっているか、確信が持てなくなるのです。
相槌は、言わば、話し手に対する聞き手側の配慮の表れであり、コミュニケーションを楽しもうという気持ちの表れなのかもしれません。(に)
第32回 相槌4
日本人同士の会話には、単に聞き手が「へえ」とか「そう」とか「ああ」といった相槌を打つだけでなく、
話し手と聞き手とで会話文を成立させている場合も少なくありません。
例えば、「きのう、あの、ほら、駅前にできたケーキの店に」「行ったの?」「それが、あんまり・・・」「おいしくなかった?」という感じで、
話し手が言いかけたところで聞き手が話を受け継いで言うようなケースで、これは日常茶飯事でしょう。
これが、話し手と聞き手がふたりで話す場合だけでなく、数人のグループの会話でなされる場合もあります。
これは、ひとつの話を参加者が一緒になって形作っていくことから、水谷信子先生は「共話」と呼ばれ、相対して話す「対話」と区別されました。
前回、相槌はコミュニケーションを楽しもうという気持ちの表れ、と表現しましたが、
この「共話」にも、相手を受け入れる姿勢や共に話す場を大事にしようという姿勢が表れていると言えましょう。(に)
参考文献
・ 『話しことばと日本人』水谷 修
・ 『心を伝える日本語講座』水谷信子
・ 『日本語 新版(下)』金田一春彦
・ 『語源由来辞典』http://gogen-allguide.com/a/aiduchi.html
第33回 蛙は単数か複数か1
「♪蛙の歌が聞こえてくるよ♪」子供の頃、聞いたり歌ったりした方もいますよね。
ところで、この歌を聞いて、みなさんはどんな風景をイメージしますか。
池の蓮の上に乗って歌っている蛙は一匹ですか。それとも二匹?もっとたくさんの蛙の大合唱を想像する方もいるかもしれません。
このように、蛙の数が人によって違うのはなぜなのでしょうか。
これは、日本語には単数形、複数形というものが存在しないからです。
もちろん、「子供たち」の「たち」、「奴ら」の「ら」などの接尾語を使って複数であることを表す方法はあります。
しかし、「きのう、私はりんごたちを食べました」とは言いません。
りんごが単数なのか複数なのかをどうしても示したいときは、「きのう、私はりんごを二つ(三つ、いくつか)食べました」と言えばいいわけです。(イ)
第34回 蛙は単数か複数か2
これが英語となると、どんなときも単数なのか複数なのかをはっきりさせなければなりません。
きのう食べたりんごは「an apple」なのか「apples」なのか。
世界の言語を見てみると、英語やヨーロッパの言語をはじめとして、単数と複数の区別を持つ言語のほうが圧倒的に多いようです。
区別を持たない言語としては、日本語以外に中国語や韓国語、タイ語などアジアのいくつかの言語が挙げられます。
英語を勉強しはじめたとき、この単数形と複数形の言い分けに悩まされました。
前述のりんごのように「s」をつけるだけならまだいいのですが、「tooth→teeth」「foot→feet」のように、
形が変わるものも多く、単数複数の区別のない日本人に生まれてよかったと心から思ったものです。
逆に、英語圏の人たちは、日本語はなんでもあいまいにする言葉だなあと感じるのかもしれませんね。(イ)
第35回 蛙は単数か複数か3
松尾芭蕉の有名な句があります。「古池や かわず蛙飛びこむ 水の音」(『春の日・春』)
また、蛙が出てきましたが、この蛙は一匹なのでしょうか。それとも複数の蛙なのでしょうか。
どう取るかで、受けるイメージが全く異なりませんか。一匹であれば、「ちゃぽん」というちょっと寂しげな音。
二匹であれば、「ちゃぽん」ちょっと間を置いて「ちゃぽん」。
あまりにもたくさんの蛙が飛び込みつづけたら、「古池」の水があふれてしまうかもしれませんね。
次の句はいかがでしょうか。
「閑かさや 岩にしみ入る 蝉の声」(『奥の細道・夏』)
今度は蝉です。この蝉は単数ですか。複数ですか。
この句に関しては、古来より、蝉の種類や蝉の数に関して議論がなされていて、まだはっきりと結論は出ていないようですが、
みなさんはどんな種類の蝉が何匹くらい鳴いていると感じますか。
私は蝉の種類はよくわかりませんが、一匹ではなく、数匹の蝉が輪唱するように、鳴き合っている静かな山奥の風景を思い浮かべます。
読者の方の中には、もちろん、一匹だと感じる方もいるでしょうし、鳴き方に関しても私とは違ったイメージを持つ方もいるでしょう。
日本語における単数と複数の区別がないという特徴は、「鑑賞」と言う点では、
「鑑賞者の理解の自由度」を増す長所となっているのではないでしょうか。(イ)
第36回 枕詞1
奈良県に「あすか」という村があります。
この村の名前を漢字で書くと「明日香」ですが、同じ読み方の漢字として、「飛鳥」を考えられる方もいらっしゃるのではないでしょうか。
「明日香」であれば、そのまま「あすか」と読めますが、なぜ「飛鳥」で「あすか」と読むのでしょうか。
有力な説は、和歌の枕詞の影響です。枕詞とは、口調を整えるためにある語に前置きのように添える言葉を言います。
例えば「あしひきの やま」「たらちねの はは」という表現の「あしひきの」「たらちねの」が枕詞にあたります。
それでは、「あすか」の枕詞はと見ていくと――「とぶとりの」です。
つまり、「飛鳥のあすか」という言葉が使われ続けた結果、「飛鳥」といえば「あすか」というように、代名詞化してしまい、
時間の経過とともに、「飛鳥」が「あすか」と読まれるようになってしまったのです。(中)
第37回 枕詞2
枕詞はなぜ生まれてきたのでしょうか。
枕詞は、地名や固有名詞に多く使われています。
特に『古事記』や『日本書紀』、『風土記』といった神道的な内容を持つものでは、ほとんどが地名や神名に使われていて、
一般の名詞に使われることはほとんどありません。
これは、枕詞の発生にまつわる説と関係があるようです。枕詞の発生についての説で最も有力なのは、
神の意志を伝える詞の中に、特殊な表現が使われており、それが枕詞のもとになったとする、託宣を起源とする説です。
こうして考えてみると、枕詞というのは、神とそれを周囲に伝える役割をする人との間の隠語のようなものだったのでしょうか。
私たちは今でも職場や仲間内で隠語を使うことがありますが、それが古代、神と人との間にもあったと考えると、面白いものだと思います。(中)
第38回 枕詞3
発生してきたころは、地名や神名に使われていた枕詞ですが、時代が進むにつれて一般の名詞にも使われるようになります。
それでは、一般の名詞につく枕詞の中から具体的に一つを取り上げて考えてみましょう。
「たらちねの」という言葉は、「母」の枕詞であるということをご存知の方も多いと思います。
なぜ「母」の枕詞として「たらちねの」になるのでしょうか。
この言葉を漢字で書いてみましょう。「たらちね」は「垂乳根」と書きます。こうすると、何となくイメージができるのではないでしょうか。
女性は子供を生んで母になると、母乳を子供に与えるため乳が垂れてしまう。だから、「乳が垂れた人=母親」という意味なのです。
少し生々しい表現のような感じもしますが、和歌を現代語に直すときに、
枕詞には触れないとはいえ、こうして意味を持っているものもあるのですね。(中)
第39回 枕詞4
和歌の枕詞から離れて、「"A"といえば"B"のこと」というような、枕詞の役割を持つ決まり文句を現代の私たちの周りで探してみましょう。
例えば、野球で「怪物」といえば後ろには西武ライオンズの松坂大輔投手の名前、
「大魔神」といえば横浜ベイスターズの佐々木主浩投手の名前しか付きません。
皆さんの周りでも、人の名前の前に何か言葉を加えるという例は多いのではないでしょうか。
「枕詞」というと、古い感じがしますが、枕詞は私たちの身近なところで今も生きているのですね。(中)
第40回 「ぼかし」の表現1
刑事:何だ、お前は。その格好からすると、勤め人か何かか。
勤め人:そうだよ、その「何か」だよ。
これは、以前見たお芝居の中にあったやりとりです(高橋いさを/作「ウォルター・ミティにさようなら」)。
6、7年前に見たお芝居なのですが、面白い台詞だったので、未だに記憶に残っています。
この台詞の中で、刑事はなぜ「その格好からすると勤め人か」と言わなかったのでしょうか。
このとき、相手はスーツを着ていて、明らかにサラリーマンとわかる雰囲気でした。
刑事も、相手の格好を見て、「こいつはサラリーマンだ」と思っていたに違いありません。
にもかかわらず、「か何か」という表現を後ろにつけています。
この「か何か」には、どういう意味があるのでしょうか。(中)
第41回 「ぼかし」の表現2
この場合の「〜か何か」と似たような働きを持ち、よく耳にする表現に、「〜とか」という表現があります。
「Aさんも明日来るとか言っていたよ」という場合の「とか」です。
Aさん自身は「明日来る」とはっきり言っていたとしても、それを伝える人が「とか」という表現をつけることがあります。
「〜か何か」も「〜とか」も、断定することを避ける機能があります。
日本人は断定することを避ける表現をよく使いますが、これは「傷付くことを避ける」ためだと言われています。
誰が「傷付く」ことを避ける表現なのでしょうか。
これには、2種類あります。一つは、「相手が傷つくことを避ける」場合です。
つまり、自分がはっきり何かを断定してしまうことによって相手が傷付くことを恐れて、ぼかすのです。
話している相手への配慮と言えるでしょう。(中)
第42回 「ぼかし」の表現3
しかし、最近、特に若い人に多いのは、もう一つの「自分が傷付くことを避ける」場合だそうです。
何かを断言して、それを相手に否定されることによって自分が傷付くのを恐れて、ぼかした表現にしていると言えます。
こちらの例としては、先に挙げた「Aさんも明日来るとか言っていたよ」という表現があります。
「Aさんも明日来ると言っていたよ」でかまわないのですが、万が一相手から「そんなこと言っていないよ。
明日じゃなくて明後日だよ」と否定されてしまった場合は、断定した自分が傷付いてしまいます。
それを避けるために、「とか」を使って、「確か、明日来るというようなことを言っていたと思う」
という曖昧なニュアンスを漂わせているということができます。
最初に示したお芝居の台詞も、見た目で相手がサラリーマンだとわかっていても、
万が一違った場合のことを考えて「か何か」をつけていると考えられます。(中)
第43回 「ぼかし」の表現4
最近、日本人の「察しの能力」が低下していると感じている人が56%に上るそうです。
さらに、これからの時代は最後まで言葉に出して言うべきだという意見が34%を占めています(文化庁 平成13年「国語に関する世論調査」)。
他にも、言いたいことをストレートに口にするタレントが人気になるなど、日本人の中でも表現をぼかすことについて変化が見られます。
しかし、相手を傷つけないという配慮や、自分が恥ずかしい思いをしないことも大切です。
コミュニケーションを楽しむためにも、「ぼかし」の表現をうまく使えるといいですね。(中)